#Paralympic = #パラリンピック = #三弓 = #THANKYOU
伊藤数子様、NPO法人STAND様
#パラリンピック = #三弓 = #THANKYOU
というようなものを是非とも普及させていただきたいと思います。
@Pete_T_Nakamoto http://t.co/LhvXNHb6UW
THree
Arches(Courage, Determination, & Inspiration)
Necessary
Keys
for
YOU
Paralympic=THANKYOU=三弓
— BeGoodMedia (@Pete_T_Nakamoto) November 23, 2014
BeGoodMedia @Pete_T_Nakamoto Nov 23
発信箱:こちらも解釈変更=落合博(論説委員) - 毎日新聞
http://mainichi.jp/opinion/news/20141113k0000m070150000c.html
解釈変更はその狡猾さによりアウト!
オリンピック旗は五輪旗。パラリンピック旗は三弓旗のように見える。
よって、 #2020東京五輪 #2020東京三弓 でよい。あとは慣れ。
※ まとめて呼ぶ場合は、 #2016リオ五輪三弓 #2020東京五輪三弓 で済むことになります。
ツイートや記事などで大助り、ということになります。
@Pete_T_Nakamoto http://mainichi.jp/opinion/news/20141113k0000m070150000c.html
THree
Arches(Courage, Determination, & Inspiration)
Necessary
Keys
for
YOU
で、
Paralympic=THANKYOU=三弓
となります。
※ 訳せば、
三弓=ThankYou=「三つのアーチ(勇気、決断、感化(霊感))は誰にとっても必要な鍵」
です。
三弓=ThankYou は英語圏でも普及させることが可能です。
智慧のあるネイティブに聞けばTHANKYOUの元になるもっといい英語があるのかもしれませんが、
私の英語力・見識ではこの程度で十分満足です。
但し、念のためということで、智慧のありそうなネイティブに遭遇した場合は、 THANKYOU の元となり、かつ、Paralympic にふさわしい印象的な英語を他に思いつくかどうか、思いついた場合は直ぐに連絡してくれるよう片っ端から御願いしておいて下さい。
ついでに、五輪=GORIN が英語圏でも普及し得るように同様なことを考えてみました。
Get
ORiginal
INspiration
で、
Olympic=GORIN=五輪
となります。
訳せば、
五輪=GORIN=「そもそもの感化(霊感)を得よ」
となります。
これも、念のためということで、智慧のありそうなネイティブに遭遇した場合は、 GORIN の元となり、かつ、Olympic にふさわしい印象的な英語を他に思いつくかどうか、思いついた場合は直ぐに連絡してくれるよう片っ端から御願いしておいて下さい。
智慧のありそうなネイティブに遭遇しない場合は、
#2020東京五輪三弓 組織委員会の顧問を伊藤数子さんが務めているという社会的立場を生かして、
Caroline Kennedy 駐日米国大使(弁護士、作家、詩人)に直談判してみるとよいように思われます。
https://twitter.com/CarolineKennedy
以上、
発信箱:こちらも解釈変更=落合博(論説委員)
2014年11月13日 00時44分(最終更新 11月13日 00時44分) 毎日新聞
http://mainichi.jp/opinion/news/20141113k0000m070150000c.html
を読んだ上での私の反応です。
オリンピック=五輪
パラリンピック=XY
のXYとして、
語感がよく、辻褄も合っている、漢字2字の新語(造語含む)を
私なりに考えてみました。
反論異論がある場合は、必ず、漢字2字の新語(造語含む)の対案を自ら説明付きで示した上で御願いします。
上記毎日新聞の記事では、
「五輪」の概念について「解釈変更」が可能であるかのように書かれておりますが、
日本国内のみでの「解釈変更」すら、まず無理でしょう。
主催する大会運営組織も、開催時期も、旗も、選手の参加条件も、競技種目も明らかに異なっているからです。
平和の祭典的な趣旨と使用する施設がたまたま同じなだけで、
何重にも異なる競技会であることは余りにも明らかだからです。
また、逆に、「 Olympic 、五輪」と「 Paralympic 、パラリンピック」とが現に区別されて表現されているというのに、
両者「五輪」という言葉で一括りにして言えるということにしてしまったら、
いずれに対しても区別して表現することが逆に困難になってしまうだけだからです。